駄菓子屋での『狂ったお作法』
駄菓子屋のお婆さんから『愛想』と『広い心』を取り除いてみよう
ドーラができあがる 参照:世界一感じの悪い駄菓子屋さん
僕が小学生時分に通っていた近所の駄菓子屋にはドーラと呼ばれる老婆の店主がいた
そして僕は彼女の笑顔を見たことが無い
友人である山下君は『店内でベビースターラーメンをぶちまけた罪』のため、ホウキで顔を突かれる罰を受けた。
罪に対しては罰があることを、幼ない僕に教えてくれたのは彼女であった。
ドーラは基本、銭湯の番台のような店内を見渡せる小高い一角に座り、子ども達を監視している。
駄菓子。それは子ども達にとって『宝石』
言い過ぎた、どう考えても駄菓子は駄菓子だ。
あんなもんを宝石とか言うやつはどうかしてるし、そういう表現でオシャレ感を出してモテようとする男はだいたいロクでもない。
しかし100円200円を握りしめてアレコレ悩んだ思い出。50円のビッグチョコは美味しいけれど、数多く、つまり長い時間をかけて楽しむならば『うまい棒』や『10円ガム』を組み合わせた方が良いのでは無いか?などと真剣に検討している時間を思い返すと、それは『宝石』に匹敵するほど輝かしい思い出のように感じる。
友達のお小遣いが多いのを羨んだり、逆に誇らしげに思う瞬間もあったけれど。
そんなことより『今持っている全て』で『どのように自分を喜ばせるか』に集中する、それが駄菓子屋の真に素晴らしいトコロだと思う。
駄菓子が宝石なんじゃない、駄菓子に真剣になる子ども達の心の動きこそが『宝石』で、その営みを生む駄菓子屋は、その採算がとれない経営形態も相まって神聖なものに感じる。
そこにドーラ
『おい。ポケットから手を出せ』
その駄菓子屋を訪れた者ならば、誰もが一度は聞いた上記のセリフ
狭い店内に複数の子供がいるときなど、牽制の為にも言う
野太い、地獄から鳴り響くような声で
『ポケットに手を入れんなよ』
そう、彼女は万引きを異常なほど警戒していた。
ポケットに手を入れる → 何かをポケットに入れて盗んだ
が彼女の方程式なのだ
瓜畑で靴を直すな、すももの木の下で帽子を直すな
それを子供達は既に知っていた。新格言
『駄菓子屋でポケットに手を入れるな』として
ドーラよ。お前はほんとうに、何の為に駄菓子屋をやっていたんだ?
今ならPTAがすっとんでくるような狂った空間だったが、当時はそれを『当たり前』として受け入れていた。だって他に駄菓子屋なんて無かったんだもん。
必然的に子ども達は、囚人達が風呂に入るときのように手がしっかり見える構えで菓子を選ぶ。『私は潔白です』と常にアピールしながら買いものをする、それがドーラ店での作法
…もしかしたら、あすこは駄菓子屋じゃなくて、出入り自由の少年院だったのではないかとすら思う
なんにしても子供達は菓子さえあれば、少々気分が悪くなろうと果敢に向かった
あの頃の勇気と無謀にエールを送る
そして看守であるドーラを楽しんでいる自分たちが確かにあった
時は経ち。子ども達の『心』と『体』はみるみる育っていく
逃げる体力もつくし、思考力の向上とともに言い返す力もつく
すると『イタズラ』が始まる
いままで『ドーラ』に苛められてきたフラストレーションも相まって『イタズラ』は練られる
ドーラは因果応報を教えてくれた。温かくすれば、ぬくもりが返ってくる。
彼女に返るのは、イタズラである
今こそリベンジの時
続く